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橋本努講義「経済思想」小レポート2005 no.3.

 

 

経済思想レポート マルクーゼ「エロス的文明」

2005.06.20 17020093 森 満奈美

 

 日本が満足度の低い国であることは、以前からよく言われていることである。しかし、勉強しておけばよかったという反省点が出るのは不思議だと思う。日本や韓国は勉強、勉強と言われてる傾向がある。欧米人からしても、日本人や韓国人は教育熱心に見られる。今では日本人に比べると、韓国人のほうが勉学におけるエリート化現象は進んでいるということができると思う。韓国の学校の話を聞いて驚いたのは、韓国の高校生は塾に行ったりしない変わりに、夜の11時まで授業をしているということである。高校生の間から第二外国語を選択することも普通に行われている。それに反比例して、勉強しておけばよかったという意見が出てくるのは、勉学・学歴社会の中にいるからではないかと思わずにはいられない。皆が学歴を重視するからか、もしくは抑圧のなかでこなした勉強だから身についておらず、実際に勉強しておけばよかったと思うのではないだろうか。なぜもっと勉強しておけばよかったと思うのかを考えた。勉強することに本当は遅いということはなくて、少なくとも遅いということはないと思っている人が欧米の国などには多くて、だからそういったアンケートの答えが出ないのではないかとも思う。勉強したいと思う、そして、その場で始める。「ああ、この年でも学びたいことを学べて満足だ」と、その人は思うかもしれない。しかし、もしこれが日本や韓国だと、「学びたいのにもう遅い、勉強しておけばよかった」というように感じざるをえない。ただ単に抑圧を強めるだけでは、この矛盾したアンケートの答えを減らすことはできないと思う。

 一体どちらが幸せなのであろうか。先進国であまり満足を得られない人生と、先進国の上位には入らなくても、日々の生活に満足と感じられる人生。人間は、多少の抑圧がなければ進歩しないと思う。それは、北部と南部における気候と経済発達の事を見てもわかると思う。人は何かを不便だと感じ、それを克服するところに新たな発明が生まれる。確かにそうであるが、抑圧と抑圧から開放された時間とを持つことによって快楽や満足は得られるのであり、そういった逆の時間を持たなければ破壊衝動タナトスが起こるのである。この逆の感覚をもつことは非常に大切である。比較的勉学の面で抑圧が強いと言われる日本や韓国で、同じ観点からの反省が出ていることはやはり問題であり、このままではなんらかの破壊衝動が起こると思っても間違いではないかもしれない。

 エロスのところでも一夫多妻制のことが出たが、一夫多妻制もどちらかといえば過少抑圧にあたるといえる。そして、一夫多妻制をとっている地域は現社会でもまだあるが、経済的に発達してはいないと思う。一方、過剰抑圧といえるかわからないが、売春禁止を強くすればするほど、犯罪が増えるといったことがあり、治安が乱れれば経済の発展も遠ざかるといえるだろう。しかし、風俗はビジネスの原点といわれることがあるように、過剰にも過少にもならない抑圧が、多大なる生産性を生み出すことは間違いないといえるだろう。いろいろ考えたが、やはり私個人としては、何を言っても満足のいく人生のほうがいいと思う。

 

 

経済思想レポート ハバーマス「公共性の構造転換」

2005.06.21 17020093 森 満奈美

 

私は、大学に来るまで関西に住んでいた。北海道に来た当初は、人の言葉に対する反応の違いやリアクションの違いにとまどったこともあった。人は皆違うのだから、地域性の問題ではないと思おうとしたが、地域の特性を理由にすることはそう難しいことではない。そう思うと、育った環境は大きいと感じる。しかし、東京で市場社会化が進んでいて、札幌で個人主義化が進んでいるのはどこか不思議な気がする。そもそも、東京と北海道が違った特色を持っているのはわかるが、東京もどちらかというと個人主義のような気がする。屯田兵によって地方から集められた、歴史の浅い北海道と、住民のほとんどが地方から来た人たちだという東京は、少し似ている点がある。そのなかでも、地方と首都圏といったことから、東京のほうが個人主義なかんじが私のなかではある。授業中にあったSEIYUの例だが、あまり目立とうとしない北海道民のほうが、返金のために大勢の人が並ぶということはせず、市場社会化の進んでいる関東のほうが、相手が何をしようとは関係なく、また金銭に関することには敏感なのかと思っていた。ディベートといった点ではどうだろうか。人の入れ替わりの激しい関東のほうが、ディベート力があるように思う。日本人がディベートなどに優れていないのは、言葉の関係上だと思われる。日本語は全部を言わないほうが良いとされている。余韻を残したり、相手に相手の解釈などを入れられる余裕のある話し方のほうがよしとされてきた。相手は目を見て話を聞き、その場の雰囲気や相手のその時の心情、言葉のトーンなども読み取らなくてはいけない。それが日本語であり、日本語の美しさである。しかし、言葉になっていないものを正確に読み取ろうと思えば、相手のことをあらかじめよく知っておく必要、また相手のことを理解しようという姿勢が必要である。そして、それが国際的な場や、見ず知らずの人と話すことがほとんどの議論の場では、この日本語の持つ美しさは何の役にも立たなくなってしまう。私たちは、自分の言いたいことが正確に伝えられるようになって、なおかつこの日本語のすばらしさを忘れないようにしなければならない。ディベート力をあげることは、グローバル化が進む以上必修だと考える。しかし、ただ単にディベート力をあげようとすることには反対である。人と話す機会などを全体的に増やした上で、ディベートの機会を徐々に増やさなければ、自己主張ばかりでまとまりのない国になってしまう。人と直接対話したり、地域との関わりが少なくなってしまった現代では、そういった機会を持つことのほうが先のように思う。その中で、討論する力をつけるような教育を入れていくべきであると思う。

最近ブログが流行っているが、私は日記を書くのがあまり得意ではない。どうしても正直に書けなくなってしまう。だから、知らない人に公開するなど考えもしなかったが、意外と知らない人のほうが公開しやすいのかもしれない。韓国では大多数の若者が自分のHPを持っていたりするようだし、韓国人のほうが日本人より自己表現をはっきりすることなどから、こういったことが自己表現にもつながっていくのかもしれないと思った。

 

 

経済学科17980065  加藤大輔 2005/06/06提出

マルクス『ゴータ綱領批判』 (518日講義)

 マルクスの労働問題、教育問題についての考え方に触れて、人間の生活や文化を支える多くの労働者が尊重され、幸福になる社会こそが真に人間的な社会であるということに関して、近年の日本のニート問題について考えてみようと思う。

NEETとは、もともとイギリスで生まれた言葉で、義務教育終了後に働きもせず、進学もせず、職業訓練もしていない16歳から18歳までの若者のことを指すそうである。そもそもイギリスのNEET問題は、移民問題と密接につながっていて、文化摩擦や人種偏見の問題とも複雑に絡みあっている。そこには、働きたくても働けない多くの移民の存在が背景にある。日本の場合は、ただ働きたくない若者の増加が問題となっているのである。ニート問題に対してよく言われているのは、社会人としての自覚が足りない、基本的なコミュニケーション能力がない、我慢強さがない、享楽におぼれている、などであり、若者を批判する傾向がある。しかし私は、若者の側の問題点を指摘し対策を講じるだけでは済まないと考える。この問題の根底には、若者にとってきわめて切実な生きがい、働きがいの問題があるからである。若者を受け入れる側の企業の問題も取り上げる必要があるし、さらには現在の日本社会のありかたそのものも議論する必要があるのではないか。

日本の企業の問題点としてまず挙げられるのが、異常な長時間労働である。かつて欧米諸国から働き過ぎを批判され、年間の総実労働時間の目標を1800時間とする時短促進法が1992年に制定されたが、その後も日本人の働き過ぎの状況は一向に変わっていない。厚生労働省が公表した2003年の日本人の総労働時間1853時間は、パートタイマーなども含めた統計結果であり、正社員労働者は2700時間くらいは働いているだろうと考えられる。また、統計に含まれていないサービス残業、休日出勤なども不況のあおりを受けて増えている。新聞記事で、月平均130時間のサービス残業で身体を壊し脳梗塞で死んだファミリーレストラン店長の事例や、長時間労働に疲れ果て会社を辞めようとしたところ、「退職することで会社に被害を与えた」と経営者が労働者に損害賠償を請求しようとした事例を読んだことがある。若者がこのような苛酷な企業社会に加わりたくないと考えるのはある意味当然のことだと思う。

また、このような日本の企業社会の弊害は家庭や教育など社会全般にも大きな影響を及ぼしている。企業にがんじがらめにされている親には、家庭のことを顧みる余裕がなく、子供は親と充分なコミュニケーションをとることなく成長していく。親が本来果たすべき義務である、子供の人間形成に関与するという仕事はなおざりにされ、子供は健全に自己意識を確立する契機を奪われてしまうのである。教育の面でも、相変らず思考力を問う楽しい教育ではなく、暗記中心の詰め込み教育が行われており、生徒にとって勉強は楽しいものではなく、有名校や有名企業に入るための単なる手段として位置づけられてしまっている。行きすぎた詰め込み教育に対する批判の声を反映して、ゆとり教育を旨とする教育改革が実施されたが、受験システムを温存したままで教育改革を行っても、親は学校で習えない分を塾で習わせるだけであり、子供にとっての負担はむしろ増えたのではないだろうか。このような家庭環境、教育によって、コミュニケーション能力に欠け、社会にうまく適応できなくなる若者が増えるのは必然である。

問題が大きすぎて具体的な解決策を述べるのは難しいのだが、いい(とされている)大学に入ることを目標としてみんな同じように勉強させるのではなく、早い段階で子供に色々なことを経験させ、将来について考える機会を与えて、自分の働きがいのある仕事を見つけるように促していくことは重要である。大学に入ったとしても、学部に縛られるのではなく、好きな講義を自由に受けられるようにして選択の余地を増やせば、自分に合った職業が見つかる可能性も広がると思う。

 

経済学科17980065  加藤大輔 2005/06/20提出

マルクーゼ『エロス的文明』 (615日講義)

エロスとは生の衝動であり、生命の統一性を構築するもので、その中心は性衝動である。その対義語としてタナトスという言葉があり、死の衝動、心の最も深い層にある「死と破壊に憧れる本能」を表す。今回は、タナトスについて調べてみた。タナトスは、これ自体は先天的に人が持つものなので、無くすことは不可能である。しかし、なぜタナトスが存在するかを説明することはかなり難しい。例えば、人は「物事がうまくいかない時」、「退屈な時」、「幸せすぎる時」、「大きな目標を達成した直後」、つまり、ありとあらゆる場面において「一切を無に帰せしめたい」欲求が生まれることがある。ただし、これを哲学的に考えれば、不思議なことでも矛盾することでもない。哲学の世界において、生きることとは即ち死ぬことであり、建設は破壊と同義であるからだ。そして、これら難しい説明などしなくても、子供が積み上げた積み木を一気に崩す時の嬉しそうな顔や、大衆が暴力・破壊を前面に映し出す「映画」に夢中になれる事実、さらには自分自身の中から湧き上がる死、リセットへの憧れを自覚すれば、タナトスが確かに存在することを理解しやすい。

このタナトスが、ギャンブル依存症にも関係している場合がある。実際には、タナトスが著しく強い人はギャンブルといった時間のかかる自己破滅を選ばないため、ケースとしてはあまり見られないようである。例えば、私達が成功し、何かを積み上げ続けていくことは、ある意味もの凄く不健全で辛いことなのかもしれない。元々は何も持たずに生まれてきたからだ。そして、時にタナトスを満たすためにも、どこかで何かを破壊したり、失敗をして重荷をおろすことが、人生には必要なのかもしれない。仮に、破壊や失敗なしに健全な人生を送れるならば、それはそれでいいと思う。 しかし、おそらくそのような人生は存在しない。私達は人生において数多くの失敗を繰り返していくのだ。そして、失敗する中で、無意識にタナトスの欲求を充足させ、ある意味すっきりとし、結果としてはバランスのとれた精神を保っていられる一面があるのだ。それでも、何もギャンブル依存症という形でタナトスを満たす必要はない。たとえギャンブルにのめり込むきっかけがタナトスの誘惑だったとしても、自分が依存症であり続ける正当な理由にはなり得ないのである。他にもタナトスを満たす方法はいくらでも存在するのではないか。誰しも、積み木が高くなればなるほどに、崩すまいとする緊張感と同時に、いつ崩れるかという不安感も大きくなるものだ。しかし、そこで楽になるためにタナトスの誘惑に負け、自分から壊してしまうこともないと考える。私達は、いつかは全てのものが崩れ落ちる覚悟さえ決めておけば、意外と冷静になれるのではないだろうか。だからこそ、ギャンブル依存という形で無理やり自分を壊す必要はないのだ。また、タナトスの誘惑が、物事がうまくいっている時にも襲ってくることを考慮すると、他のことで苦労をして、むしろ自分を労る状況にある時の方が、タナトス型依存症の回復は早まるのではないだろうか。

 

 

マルクス・エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」

経営学科3年 17030036  野呂 小百合         2005511

マルクス主義の物質的生産関係について考えてみると納得できるものがある。マルクス主義では物質的生産関係が意識・思想を規定すると考え、物質的生産関係を変革することによって、新たな意識と思想を展望するとしている。実際の生活で考えると、人間各々の考え方はやはり自分の置かれている立場・環境によって決まってくるであろう。貧乏な家庭で幼いころから生活してきた人は、お金は無駄にせず、節約しなければいけないと考えてだろう。それに対して、裕福な家庭で何不自由なく生活してきた人は、お金を節約しなくてはという考えは持っていないであろう。この両者の考え方が変わるのは、貧乏な人は裕福に、裕福な人は貧乏にという風に生活自体が変化することによってのみではないだろうか。これは行き過ぎた例えかもしれないが、意識・思想に関しても言えることである。総理大臣を誰かに決めなくてはならないという場合、一般的な国民とかけ離れた生活を送っている人よりむしろ庶民的な生活を送っている人の方が良いと考えるだろう。それは親近感があるということもあるが、「自分と同じような考え方をしてくれるのではないか」とか「自分たちの気持ちがわかってくれるのではないか」と考え、自分たちの望む方向に国を動かしてくれる気がするからである。このことは、もう無意識的に人間は一部でマルクス主義的な考え方をしているということである。

 マルクス主義で理想とされる分業のない世界については賛成できない部分がある。現在の世の中ではあらゆるところで分業が行われており、私たちが大学で学ぶ際に学部ごとに分けられるのも分業のためである。社会的に分業が行われていることによって、人々はたくさんの知識を持たなくても自分に与えられた分野だけをこなしていけば生活していけるようになっている。もし分業がなくなると、専門人はいなくなる。例えば医者も医学についての専門人であるが、医者がいなくなればその分の専門知識は一般人が各々習得しなければならないということになるが、これは現実的に不可能であろう。専門知識を持つ人がいなくなっては今の世界は成り立っていかない。また、現在のように国際化が進んでいる社会で分業をなくすようなことをすると、国際的な競争力が全くなくなってしまう。分業により同じ仕事を繰り返すことで、人間はより早くより正確に作業をこなすことができるようになる。分業がなくなれば、国中にやりたいことをやりたいときにするという人があふれ、人々は効率性を度外視した行動をする。これでは世界の国々と張り合っていけない。このようなことから現代の世界においてマルクス主義的な理想国が成り立たないこととなる。狩りや漁だけをやって生活していたような大昔の世界では分業がなくても成り立っており、人々は毎日違うことをして生活していたであろう。しかし、そのような人々が効率の良い方法を考えるようになったときに分業が発生したのだと思う。なので、分業は社会に不要なものではなく、人間社会が発展してきたことのきっかけであり、ある程度の高度な社会には必要不可欠なものであるのである。

 

マルクス「経済学・哲学草稿」

経営学科317030036  野呂 小百合         2005516

今回のレジュメの中に「国民経済学を動かしている唯一の車輪は、所有欲であり、所有欲に駆られている人たちのあいだの戦いであり、競争である」と抜粋された部分があり、それは本当に資本主義の根本のようなものだと思った。そして私的な所有欲のための争いにより、敵対性が生じるのである。同じ人間同士の間で争い合いがあるのは資本主義のせいかもしれないとも思った。人間はひとつの類的存在である。授業中にも誰かが言っていたが、人間はいざとなれば家族、国家、人種などで団結しようとする。自分自身を何らかの類に所属させて、仲間意識を持とうとするものなのだ。その類的存在の地球上での一番大きなくくりが「人類」であるのだから、何も原因がなければ同じ類としてその中で争いや競争はないはずである。しかし、国家という小さい類においてでも企業間同士の競争などは数え切れないほど起こっている。それはやはりマルクスの主張のように、資本主義が原因かもしれない。資本主義だけがただ1つの原因だということはできないかもしれないが、大きな原因のひとつであることに違いはないであろう。なぜなら、資本主義は様々な競争を前提として成り立っているからである。価格が決まるのも、提供する側とされる側のやりあいによってであるし、経済が活性化するには企業間同士で競争しなければならない。マルクスのように競争がない社会が理想だと考えるならば、資本主義社会は理想とはかけ離れた社会である。しかし経済発展は様々な競争によって起こるのではなかろうか。争いあうことで、効率性を求めたり、低コストでの製品生産が可能になる。競争のない共産主義社会の経済は停滞かもしくは衰退しか道はないだろう。全世界が同じような経済状態でどの国も経済成長を望まないのなら、「人類」という類的存在として争いなく生活していけるかもしれないが、多くの人間は自分の現在の状況を少しでも改善させたいと願うものであるし、世界的な経済格差の激しい現代では競争がなくなるということはないだろう。

 次に結婚制度の廃止について考えてみた。結婚制度は廃止すべきではないと思う。結婚制度がなくなれば、類的な集まりの中で最も小さな家族がなくなることになる。女性と男性が共同体的な共通の財産であるのと同様に、子供も共通の財産になる。このことから子供ができてもそれは自分の子供ではなくて、人類の子供である。誰が親であるのかということは重要ではなく、血がつながっていようといなかろうと関係ない。では子供は誰が育てるのであろう。授業で託児所のようなところで育てればよいのではという話もあったが、もしマルクスの理想の社会なら、人々は何かに縛られることなくやりたい仕事をするので託児所で働きたいという人がいない日には子供はほったらかしという状況にならないともいえないだろう。子育てには責任が必要であるし、愛情を持って育てることが必要不可欠だと思う。それにはやはり家族という類的なグループを、制度によって作らなければならないのだろうと思う。結婚は排他的な私的財産の一形態であるが、それがなければ人間は好き勝手な行動をしてしまうだろう。自分のやりたいことをやっているのは幸せかもしれないが、それでは社会の発展は望めない。人々が責任を持って生活していくことで、社会は発展していく。結婚だけでなく就職などによっても何かのグループに自分を所属させることで始めて、人間は責任を持った行動ができるのだと思う。

 

マルクス「ゴータ綱領批判」

経営学科3年 17030036 野呂 小百合          2005518

 今回の講義までで、私のマルクス主義に対する考え方がだいぶ変化した。マルクス主義を基礎としてつくられたソ連の崩壊という歴史的な事実によって、マルクス主義は古い考え方で、資本主義より劣っていたから国が消滅したのだと考えていた。しかし、浅くではあるが少しマルクス主義を学習したことで、必ずしも劣っていて間違っているわけではないのではないかと感じたのである。今回の講義で普通選挙・義務教育・児童労働の禁止などは現代の日本では当たり前のことであるが、元は社会民主労働者党が主張していたことであるとのことである。社会民主労働者党はマルクスやエンゲルスと近い考え方にあることから、そういった人類の平等を説いたマルクスは資本主義の国にも多大な影響を及ぼしていることがわかる。また「身分、財産、出生および信仰にもとづくあらゆる特権の廃止」というのは、人類の平等化・差別の禁止などにもつながることである。差別の禁止は現代において憲法などに組み込まれているが、世界的にはまだまだ実現されていない。様々な地域で身分、信仰などによる差別がされており、前述の義務教育なども世界的に実現させるにはまだ相当の時間がかかりそうである。このことから世界的にみてマルクスの考え方は古いものではなくまだ目指していかなければならないものであろう。

 しかし、労働者は働いた時間に応じて労働証書を給付され、その労働証書によって衣類や食品などの生活必需品を得ることができるという制度は効率が悪く実用的ではないと思われる。もちろんこの制度では時間という一面的な尺度によって平等である。しかし、この平等によって、懸命に8時間働いた人と怠けつつなんとなく8時間過ごした人とが同じ8時間としての労働証書を得るという不平等が生じてしまう。そのような状況になれば誰も勤勉に働かなくなるだろうし、国家全体がそうであるのだから国家経済は収縮の一途をたどるだろう。労働という面で人々が平等であるには、やはり何時間働いたかという時間くくりにするのではなく、何をしたか、どんな功績を収めたのかに応じて賃金を支払うというのが最も良いであろう。そうすれば多くの人々は勤労意欲を持ち、国家経済も成長するはずである。この方法だと才能や能力による不平等が生じてしまうが、自分のがんばり次第で裕福になれる可能性があるということなので、才能や能力のある人に努力によって追いつこうとする。このような人生の目標を持つことが社会全体に良い影響を与えるので、所得の格差が生じるのはやる気を起こさせるためにも必要不可欠である。また、貯蓄ということについてもマルクスの考えではやめるべきで、子供に財産を相続させないという話も出ていたが、それはまた勤労意欲を減退させるものなので良くないと思う。マルクスは「人類は類的存在である」と述べていた。私は類的存在の最も小さい集まりは家族であると思ったので、人間が自分の家族を大切に思うのは仕方ないことだと思う。子供になるべくたくさんの財産を残してやるために懸命に働いているという人はたくさんいるのではないか。そういった人は財産を子供に相続できないとしたら意欲を失うであろう。国家経済が成長していくためには、やはり仕事の内容によって賃金を定め、貯蓄を認めるという方法が良いだろう。

 

ウェーバー「宗教社会学論選」

経営学科3年  17030036  野呂 小百合        200566

 まず今回の授業範囲で印象に残ったことの1つは、西欧において16~19世紀の間に近代資本主義が成立したのと似通ったことが1945~1972年辺りの日本に起こったことである。日本が西欧の資本主義をまねしたわけであるが、西欧ではそれは宗教の教えによって成し遂げられた面が強いであろう。日本では宗教を強く信仰している人もいればそうでもない人など様々で、しかも宗教が1つではない。このような国において、西欧の宗教と同じ働きをしたのが国家だったのではないかと思う。日本の国家が国民を日常生活全般の合理化や同胞倫理へと導いたのだろう。日本において当時国家は、西欧の宗教のように絶対的な役割を持っていたということになる。西欧ではこの西欧近代主義の後に、脱宗教化が強くなり今に至っている。日本でもニートが増加するなど近年資本主義への考えが薄くなってきており、問題となっている。西欧ではこれは脱宗教化によるものだと知られており、脱宗教化によって国家主義化してきている。日本では脱宗教化をするほど宗教が国民に影響を与えるものではなく、1945年の時点でもはや宗教ではなく国家が勝っていただろう。ここで疑問点は脱宗教化によって国家主義化してきている国が多い中で、宗教がもともと力を待たないまま発展してきて、国家がもともと強い力を持っていた国の国家主義化というのはどのような感じなのだろうかと疑問に思った。

 次に現世内禁欲について考えて見ると、日本人は性格上まじめでこの現世内禁欲に含まれる人はとても多かったのではないかと感じた。こういう人が多かったからこそ、日本の高度経済成長は起こったのだと思うし、資本主義がうまく働いたのもこのせいだろう。その現世内禁欲と相反するのが、現世逃避的瞑想であり老子はこの中に含まれるのだそうだ。現世内禁欲と現世逃避的瞑想のどちらが優れているのかはわからないが、私は個人的に現世逃避的瞑想に憧れを感じる。ただ真面目で勤勉な現世内禁欲者と現世逃避的禁欲の人とを比べると、精神的に優れていて自分自身を高めているのは現世逃避的禁欲の人のような気がするからである。このことは、現代の日本でニートが増え、自分自身についてより深く考えようとする傾向にあることに通じる気がする。資本主義を支えるのは現世内禁欲であるが、だからといって現世内禁欲が正しいというわけではなく、現世内禁欲以外の考え方をする人が増えればそれは新しい経済の根本が必要となってくるのだろう。

 その他には、死に対する意味づけの問題で、私は自分の死の意味といっても「自分が今死んでも、世の中は何も変わらなくて、少しすれば忘れられてしまうような存在だ」などと考えたことがある程度だった。死には2つあって、自己存在の消去と自己存在の証明だということが挙げられていたが、自殺をする人の多くは自己存在の証明のためだろうと思う。人間は自分が価値のある存在だと思いたいものなのだと思う。であるから、自分に価値があるのか不安になったり他人に認められないなどして追い詰められると、自殺という形でしか存在を証明できなくなってしまうのだろう。戦争の時代においては、人々は国家から生の意味を与えられていた。今から考えればお国のために死ぬなど考えられないが、その時代の人にしてみれば全ての人間は価値があると国家から保障されていたのだから、認められたいという欲求は現代人よりも満たされていたのかもしれない。

 

ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

経営学科3年  17030036  野呂 小百合       200568

 今回の講義の最初に受験戦争・戦後日本経済・近代資本主義の類似性について学んだが、とても納得できるものがあった。大学生は受験勉強をしているときは、どのような理由であれ大学合格というただ1つの目標に向かって進んでいくし、戦後の日本経済や資本主義では、経済の発展ということに向かって社会全体が進んでいったのだろう。しかし、大学合格や、富の蓄積などにみられるように大きな目標がある程度達成されると、人々はそれまでの禁欲から開放され、次の大きな目標を見つけられないままさまようことになる。私もそうであったが、受験まではある程度禁欲・勤勉に大学合格に向かって努力してきて、目標が達成された時は達成感なども味わったが、その後は目標も見つけられないままただ日々をこなしていくだけになっている。もし、大学入学の後大学側から、進級のためには資格を取らなければならないなどの目標が与えられれば、それはそれでやはりある程度禁欲に努力したと思う。社会全体としてもそうであり、常に速い進歩を望むのなら、国家は目標が達成されるたびに、国民全員が禁欲に努力できるような目標も打ち出していかなければならないのだろう。

 しかし、私は受験戦争・戦後日本経済・近代資本主義などの状況は極めて特殊なものだと考える。人間は禁欲・勤勉に日々生活する生き物ではなくて、本質的に大多数の人がなるべく楽をしたいと考えるような怠惰な生き物であると思う。もちろんそうでない人間もいて、例えば大学に合格した後は公認会計士や公務員になるためさらに禁欲に勉強する人だったり、バブル崩壊後の日本で成功した起業家であったりする。しかし、今回の講義で出てきた「これまでと同じ報酬を得て伝統的な必要を充たすためには、どれだけの労働をしなければないか」という文章からもわかるように、人々はなるべく楽に生活したいと考えている。そうであるのだから、やはり前の3つのような特殊な状況においてでないと禁欲に生活することは不可能であるし、このような特殊な状況は簡単に創り出せるものではないであろう。講義の中で出てくるような有名な思想家は、特殊な人間で下位の欲求を求めなくとも上位の欲求を求めることで勤勉に生活していけるのだろうが、一般的な人間にはそのような特殊な人たちに蔑まれるような下位の欲求が必要不可欠なのである。一般の人々にとっては大掛かりな目標に向かって禁欲に努力することよりも、禁欲である必要がないような小さな日々の目標に向かって、しかもなるべく楽をして自分の欲求が充たされるようにという考えの下で生活していくことの方が、普通のことであり人間の本質である。

 結局、人間に一生禁欲であれというのは絶対的に不可能である。そうなのだからあの頃はできたのに今はなぜ禁欲にできないのかと考えるのは無意味で、禁欲だったのは特殊な状況だったからだと考えるべきだと思う。歴史的にみて社会全体で禁欲に進んでいた時期が何度もあったと思うが、そのような状況は長続きしなく、ある程度怠惰な時期を間に挟まなくてはいけない。日本は現在怠惰な時期なのかもしれないが、いつかは皆が禁欲に努力するような時期が自然とあらわれるのではないかと思う。

 

ハンナ・アレント「人間の条件」

経営学科3年 17030036  野呂 小百合         2005613

 今回の講義では、活動的生活の三類型で労働・仕事・活動の違いについて学習した。労働は農業・工場労働者などに代表され、仕事は職人・建築家など、活動は演劇・政治家・医師・弁護士などに代表される。この活動的生活の3つの中で自分としてはどれが望ましいのかについて考えて見たところ、労働が一番良いのではないかという結論になった。

 まず、仕事は、職人・建築家に代表されることからもわかるように、人間の手によって何かを作り上げることであり、それは適切に使用されれば消滅することはない。また個々の工作物は腐食する運命にあっても、工作物全体は世代を超えて永続するような耐久性を持っている。この耐久性は工作人自らの生命を超えるものであるので、自分が死んだ後も自分がこの世の中に存在していたのだということを証明する道具にもなりうる。人間はみな自分が生きている理由や存在価値などを得たいと考える生き物であり、そのため後世にも自分がどれだけの功績をかげたのかとか、どのような作品を作りあげた人間なのかということを知らせたいと思うものである。しかしながら、現実的なことを考えると、この仕事に就ける職人・建築家などはどれだけ存在しているだろうか。人間はみな何かを後世に残したいと思うものだけれど、こういった職業に就けるのはごく限られた才能のある者達だけである。才能もない者が何かを作り上げたとしてもそれは、小学校の図工の作品のようにすぐに忘れさられてしまうものであり、そうなってはもはや仕事の意味がなくなってしまう。このことから、仕事は才能のある者にはよいが、それ以外の者には全く意味のないことである。

 次に活動であるが、活動はそれ自体が新しい始まりであり、物語的なものだということであった。私はこの活動の説明について理解できていない部分がかなりあったとは思うのだが、この活動は一生夢を追いかけられるような人間にしかできないことだと感じた。活動はそれ自体が始まりのだから、立ち止まることはできないのだろう。また、この活動も仕事と同様で才能を必要不可欠な要素としている。活動を選ぶことにはかなりのリスクがあり、長期間続けるには才能と努力が必要であるので平凡な人間には長続きはしなさそうである。

 最後に労働は、授業で誰かが述べていたようにこれだけが他人との関わりが関係してくるものである。そして労働だけが誰にでもできることである。さらに労働だけが同じことをしているという一体感を得ることができる。労働は仕事のように耐久性のある作品を残したり、活動のように何か物語的な美があるわけでもなく、ひたすら毎日単純労働の繰り返しかもしれない。しかし誰もができる労働に属することは、何のためらいもないであろう。仕事や活動のように才能などの要素が必要であることはないため、様々な労働に属することも可能である。仕事や活動は決めた道をひたすら突き詰めていかなければならないが、労働はもっと気楽で、自由である。様々な職種を経験してみたいという人々にとっては、労働が最適であり、全てが単純労働の繰り返しであっても、経験をつみ、様々な単純労働を知ることで幸せな生活を送ることができるだろう。このようなことから私自身としては労働が一般の人々には望ましいと考える。

 

マルクーゼ「エロス的文明」

経営学科3年 17030036  野呂 小百合         2005615

 「フロイトによれば、人間の歴史は、抑制の歴史である。文化は…本能の構造それ自体を制約する。しかも制約こそ進歩の前提なのである。」と今回の講義の初めに書かれていた。本当にその通りである。人間の歴史の中で、経済が急速に発展した時代を考えると、(例えばイギリスの産業革命、日本の高度経済成長など)人々は労働に縛られながら、自分の欲求を満たすことなど許されないような状況におかれていたように思う。自分の欲求を満たす労力や時間をある程度全て労働に費やすことによって、自国の経済発展に貢献していたのである。その中でも今回の講義範囲である「エロス」は厳しくコントロールされていた。先ほどの文の後に「コントロールされないエロスは、その恐ろしい相手である死の本能と同様に、致命的である。」と書かれているように、コントロールされなければ成長は望めないのである。

このように、エロスが過剰に抑圧されていれば、エロスの自由を求める反抗が起こるのも当然である。人間はたとえそれが下位の欲求に属するものであっても欲求を満たしたいと思うものであるから、抑圧され続けていれば我慢の限界を超えたときに反抗が起こる。この反抗は日本において高度経済成長時期に過剰抑圧されていた人々が、いっきに自由を求め始めた歴史的事実にみられるようにかなり大掛かりな運動になる可能性があり、社会的に今までの体制が根本から崩れてしまうことにもなりかねない。過剰抑圧をすれば、このような反乱が起こり結局過少抑圧の社会になることは避けられなく、社会体制が崩壊してしまう。先に述べたように、高度成長には過剰抑圧が必須であるので、過少抑圧の社会がまた高度成長を望むのであれば、過剰抑圧を行わなければならない。このようにして過剰抑圧と過少抑圧が繰り返し行われていくのが社会であるように思える。しかし、過剰抑圧に反抗し、過少抑圧を手に入れた人々が社会の発展のために、また過剰抑圧に応じるのかどうかが私には疑問である。一度、過少抑圧を経験した人々は過剰抑圧を受け入れることなく、そのような体制になることに強く反対するだろうと思う。イギリスがいち早く産業革命を行い世界一の大国であったのもかかわらず、その後は急速な発展をできずにいることや、バブルが崩壊した後の日本において不景気が続いていることには、このような原因が含まれているのではないだろうか。

 人々の多くは一度自由を手に入れれば自由だからこそ生じる不安はあるものの、自由を手放したくないと思うであろう。そうであれば、社会は過少抑圧から抜け出すことはできない。一度急速な成長を遂げた社会は、次はそのような発展を遂げにくいということになる。では現在の日本はどのように発展していけばよいのだろうか。一つは、国民の反対を押し切ってでも過剰抑圧の状況を作り上げることであるが、これではまたすぐに過少抑圧を求める運動が起こるであろう。私も結局どうしたらよいのか結論は出ないのだが、過少抑圧のままで成長が見込めるような社会構造にすることが必要なのではないかと思う。労働者の労働条件をさらに労働者の望む方向にし、それに代わって労働者同士の競争を活発化させ、労働の効率化をはかることで発展するのが良いと思う。高度成長のような急速な発展は見込めないが、長続きする社会体制を築いてゆっくり成長していくのが最終的には効率が良いのではないだろうか。

 

ヴェブレン「有閑階級の理論― 一制度の進化に関する経済学的研究」

経営学科3年  17030036  野呂 小百合        2005622

 今回の講義で、一番印象に残ったのは、無一文の有閑紳士階級と、衣装の位置づけについてである。まず、無一文の有閑階級とは現代で言うフリーターだと思うが、彼らは経済的にも厳しく社会的にも低い階級とみなされるであろう。しかし、フリーター自身は自分たちを正当化し、勤勉に一生懸命毎日同じような仕事をしている人々を蔑んでいることが多いように思える。彼らは他の有閑階級に属する人々(有閑マダム・文化人・知識人・高所得)などと違って、金銭的には劣っているが、自分たちが決まった職に就かず、自由気ままに時間を浪費することで、他の有閑階級と同様に自由に暮らしているという気分を味わいたいのかなと思った。講義の中で、人々は必ず自分の一ランク上を目指し、あこがれるというemulationについても学んだ。私も含め多くの人が、自分より少しランクが上だと感じる人にあこがれ、自分よりかなりランクが上の人というのはテレビや新聞で目にするだけで、こんな人もいるのだなと感じるだけでそのランクを目指すことは現実的ではない。しかし、無一文の有閑階級はこのemulationに属さないのだと考えられる。一つや二つ上のランクで、懸命に働いている人間にはあこがれず、むしろ一番上を一気に簡単な方法で手に入れようとした結果が無一文の有閑階級なのではないだろうか。努力をせずにすぐ有閑階級の一員になりたいということが、時間を自分の自由に使えるようにするということにつながり、そして結局決まった職につかないということになったのだと思う。しかし、現在の日本のフリーターには、自分が思う一ランク上を目指すために仕方なくフリーターをしているという人もいる。例えば、ケーキ屋さんで社員として働いていきたいと考える人でも、学校を卒業してすぐはフリーターとして様々なケーキ屋さんで修行を積むだろう。私はこのように意味のあるフリーターをしていることは良いと思うが、決まった職に就く気もなくそれでいて自分を正当化するようなフリーターには、あまり賛成できない。

 次に、衣装について今回のプリントに衣装が単なる浪費的な消費の露骨な証拠ではなく、その着用者がいかなる種類の生産的労働にも従事していないということを、あらゆる観察者にわかるようにするためだということには、とても納得した。スカートや、ハイヒールは実際に動きにくいし、その格好で労働に従事することはできないだろうという服装が女性にはたくさんある。わざわざそのような格好をするのは、生産的労働に従事していないことを示し、他より経済的に優れているということを見た目で簡単にわかるようにした。女性だけがそのような格好をしたのはなぜだろうか。なぜ男性は、自分の優位を他に見せ付けるために非生産的な服装を身にまとわなかったのだろう。もちろん、階級によって着ている服の質は異なるが、男性はハイヒールやスカートなど極端に動きにくい格好はしないであろう。それが今回の範囲での疑問であった。

 

ジャン・ボードリヤール「消費生活の神話と構造」

経営学科3年  17030036  野呂 小百合        2005627

 私は今まで、消費者が選ぶから新しい商品が生まれ、流行も出来上がると考えていたが、今回の講義でそうではないということにはじめて気づいた。人々は自分で主観的に選択して消費行動をしていると考えているけれど、実際は生産者やマス・メディアによって操られているだけである。テレビや雑誌を見れば、「この夏はこれが流行る」などと出ていて、ショップ店員も同じように流行るものを買わせようとする。これは、消費者自身が作り出した流行ではなくて、去年と違うものが流行りなのだと消費者に思い込ませて、買わなければいけないような気持ちにさせるという生産者側の戦略である。しかし、そう理解したからといって、私はその社会の流れから抜け出したいとは思わない。生産者側としては、もちろんたくさん売れた方がよいのだから、人々が今の流れから脱し、あまり消費しないようになることは嫌であろう。消費者側からすれば、操られていることを知りながらも、主体的に選択したのではないかと思わせられることで、幸福感を得られるのだから、悪い気はしないだろうと思う。また、人間は浪費によって豊かさを他者に見せつけ、自分の優れているところを認めてもらいたいと感じる。この場合何に浪費するかということが重要になってくるが、他者にすごいと思わせるには、自分の感性だけでなく第三者的な感性が必要であり、これが一般的に知れ渡った基準の上位であればあるほど多くの他者へ優位性をアピールできることになる。自分の主観的にはこの商品が優れていると思っても、社会全体的には違う商品が優れていると考えられているということがあれば、その消費者は他者に見せつけるためにも社会的に認められた商品を購入するかもしれない。この時の社会的な基準というのが、生産者が私たちに押し付けてくる流行やブランドなのだと思う。つまり、私たちは生産者から押し付けられた基準を、社会一般の基準として無意識に受け入れているのである。

 このように考えると人々は同じ物を欲しがるような気がするが、実際はそうではない。人々は差異化することの消費にも積極的である。同じような流行にだまされ、操られている中で、差異化をしようともがくのはなぜなのだろう。他者と全く違うことをしたいのなら、流行などに流されることなく本当の意味で自分で選択していけばよいはずである。その方が、同じ流行の中で差異化するよりも格段に差異化は進むであろう。それなのに、人々がそうしないのはなぜだろうか。私が考えたのは差異化をしたほうがよいというのも、生産者側というか、他者から押し付けられていることなのではないかということである。もともとは画一的な流行に流されているだけだった人々に、消費においても個性を出すことが良いことだと思わせるような、広告や宣伝をして、個性的であるというバリエーションへの付加価値によって高くたくさん売ろうという戦略なのかもしれない。実際、色や形などのバリエーションは様々で、全く同じものを所有している人はあまりいないという状況を作り出すことは可能である。その戦略が、他者との差異化・アイデンティティの確立といったことに結びついて、現代のような一方では社会的に認められた基準に従って消費行動を行いつつ、その選択肢の狭い中で差異化を進めようとする矛盾したような行動が発生してきたのであろう。

 

 

1回 「職業としての学問」

4月18日提出  3年 経営学科  17030060 鎌田 幸江

 全ての学生ではないが、ほとんどの学生は大学入学の困難さと大学生活の単調さを感じているだろう。日本では高校までとは違い、大学に進むと自分の教養や専門分野を身につけるという勉強内容となっている。しかし現状では先生がおっしゃった通り、大学のブランドを得るために必死で受験勉強し、大学に入学してからはよほど強い思いや目標の持っている人以外は、卒業・就職のためだけに勉強し、大学生活を送っているように思われる。そのため、アメリカなどのように大学入学の道を広げ、卒業の道をもう少しせばめる、つまり卒業・就職の際は大学生活の内容が問われるような仕組みが日本にも必要である。そして、先生が掲げる大学改革案は、今の日本の大学にとっては斬新なアイディアのように思われる。

 例えば、初年次教育を外注化することやゼミ改革、3年次進級資格試験などといった点には私は大いに賛成できる。初年次教育では選択の自由が認められていると同時に、自分の可能性を知り、その可能性を広めることができるチャンスであると考えられる。また大学内にとどまらず、海外旅行や市民活動といった社会の関わりによって単位が認められるというのも新しい考えである。さらに1つだけのゼミにとらわれることなく、多数のゼミに所属することによってさらなる知識を深めることができ、将来の選択の可能性が広がることを意味するように思われる。

ところで、大学入学試験資格を高1からにするが、高校を卒業するまでは大学に進学できないというのには問題があると考える。例えば高1で550点以上を取ってしまった人たちがいるとすれば、その人たちはおそらく小・中学生時代に人一倍勉強してきたのだろう。彼らが高校卒業まで、何をして高校生活を送るのだろうか。私はこの2年は、彼らにとって無駄な時間にしかすぎないように思う。もし入学試験資格を高1からにするのであるならば、入学するのも高1から認められるような制度を設けるべきである。また、その際高校卒業と認められるのか否か、さらに高1で大学入学するために、小・中学生時代に塾へ通う生徒が増え、幼稚園あるいは小・中学の受験戦争過熱へつながるのではないか。そして、授業中に誰かが提案した、勉強ができないかもしれないがスポーツや芸術、文学などの面で優れているかもしれないという人たちのために、英才教育が施されるスーパースクールを設けるということも同時に進めることが必要なのではないかっといったある程度検討すべき点もある。

また、授業中に先生は、550点以上で行きたい大学へ行けるとしたら、ほとんどの学生は東大に行き、結局は北大や東北大などは吸収され、東京大学札幌校のようになるだろうとおっしゃった。そうなると、北海道教育大学のように、各校によってある程度の教育の質の格差が生じるように思われる。その場合は、札幌校や東北校などではなく、本校に行きたいという選択が可能になると、結局は今までの大学入学試験とあまり変わらない。もし選択の自由がなく、自分の居住地域によって札幌校や東北校などと決まるなら、その教育の質の格差はどのようにして解消していくのか。

さらに、授業料によって自律意識と能力の向上を図るということは、一見効果がありそうに思われるが、結局はお金のために勉強することになり、せっかくの自由で質の高い教育である大学の存在意義が失われてしまうのではないかと考える。

私はこの大学改革論に疑問を持つ点もあるが、同時に大いに賛成もできる。なぜなら、今までほとんどの大学生は、決まりきった同じような大学生活を送っていただろう。しかしこのような大学が存在することによって、それぞれ個性のある自分だけの大学生活を送り、知識を深めていくことができるだろうと考えるからである。

 

5回 「ゴータ綱領批判」

66日提出  経営学科 3年  17030060  鎌田 幸江

 今までの3回の講義を通じて、やはり何人かの学生と同様に私もあまりマルクス主義についての知識がなかったため、新たに学ぶことが多い講義内容であった。別に講義を受けてからマルクス主義に洗脳されたわけではないが、マルクスはやはりすばらしい思想家であると考える。もちろんマルクスが主張していること全てに対して納得するわけではないが、現在では当たり前のこととなっている普通選挙や立法権、義務教育などの土台部分を1800年代に主張していたからである。その点ではやはり、マルクスの世界の捉え方を評価すべきではないのだろうかと考える。だが3回の講義から、マルクスが主張している自由と平等な社会的連帯を願うヒューマニズムから始まり、共同社会の実現を目指す共同主義社会が理想であるということに対して、私は常に一つの大きな疑問を抱いていた。それはマルクスが理想とする自由と平等はいったいどこまでを指すのかということである。たとえば今日の講義であった労働証書の給付についてだが、労働証書は労働内容ではなく労働時間によって賃金が尺度されて給付されるというものである。マルクスが下級階層に視点を向けているためかわからないが、このシステムは下級階層の人々や優れた能力がない人々に対して優位に働くものである。なぜなら、もちろん労働時間内の労働は誰かが監視しているため、労働者は怠けるということはないだろう。そのため労働時間内はまじめに働けば、普通に生活できるくらいの金額である賃金を得ることができるからである。しかし、このシステムによって能力のある人々の可能性を閉じ込めてしまうかもしれない。それは有用な仕事をしても時間によって賃金が尺度されるため、ある程度の労働内容で充分であると判断してしまうからである。そして能力のある人々は自ら進んで有用な労働をするということはなくなり、技術発展は遅くなるだろう。

マルクスは、労働内容ではなく労働時間で評価することが平等化につながると主張しているが、能力のある人々の才能を閉じ込め、技術発展の速度を落としてまでその平等が必要なのだろうか。そしてそれは平等といえるのか。また労働は本来、自分自身を豊かにするやりがいのある自由なものであるはずだと主張しているが、このシステムにより、能力のある人々にとっての働くということが単に生活するためのお金を得るという手段に過ぎないものとなってしまう。つまり彼らにとっての労働は、やりがいの感じられない半ば強制的なものとなってしまうのではないかと私は考える。ところでマルクスが指摘する資本主義社会における労働の問題点、いわゆる生産物を得るための賃金労働を強いられ、それによって自分自身の内的世界が貧しくなってしまうということは理解できる。しかしマルクスが提案する労働証書の給付システムによっても、能力のある人々に対してはある意味賃金労働が強いられる状況が生み出されてしまう。したがって、マルクスが主張する自由と平等によってマルクスの理想とする共産主義体制でも資本主義社会が抱える問題と同じ結論となってしまう場合があるため、いったいマルクスの理想とする自由と平等はどこまでを指すものなのか、また自由と平等というのは実際ごく一部の人々にしか機能せず、全ての人々に対しての自由と平等というのは現実的には無理なものではないのかということが3回の講義を通じて疑問に思う点である。

 

7回 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

613日提出  経営学科 3年 17030060  鎌田 幸江

 カルヴァンは超越的な神の絶対性に対して、すべてを神の栄光のためにという主義である。それは人間が救われるかどうかは神によって既に決まっていて、人間はただひたすらそれに従い、職業も神から召された使命で、その使命を果たすということが神の栄光をたたえるというような神への絶対服従のことである。私もほかの生徒と同様に、なぜそれほど神への絶対服従が大切と考えるのか理解できないというのが率直な意見である。もちろんこれは当時の社会状況などを反映して、教会中心主義から神中心の信仰への転換という宗教改革ということで贅沢や娯楽を禁じてキリスト教を理想として禁欲的な神権政治を目指すことだということはわかる。しかし神の選びを受けて救われるか否かは神の絶対的な主権に属し、人間には神の予定をかえる自由意志はなく、生活や政治などあらゆる面で神の意志への絶対服従と義務の遂行ということには必ずしも納得できない。そして神の召命というのは職業に従って禁欲と勤労に専心し、これを務める信徒に神は財産の管理権を与えるというものである。これは労働が神の栄光を増すためのものであるとしていながらも結局は国家のため、あるいは政治的社会的名誉を得るために労働するにすぎないのではないだろうか。そのためマックス・ウェーバーが世俗的利益を放棄した勤勉・質素・禁欲のカルヴィニズムが職業倫理を通じて近代資本主義形成の精神となったと述べている。この近代資本主義形成の精神ということは理解できるが世俗的利益を放棄したものだとは言えないように思われる。さらにカルヴァンは、ある職業にきちんと従事して熟練することで自尊心を得ることができ、これが神の栄化へとつながるとも述べている。しかし熟練度を高めれば高めるほど、労働時間を増やせば増やすほど神の栄化が進む一方で、会社人間が増えてしまうことにもなるのである。以上のように、私にはカルヴィニズムは超越的な神の絶対性に対して、すべてを神の栄光のためにということは理想のことにすぎず、結局は社会的地位やお金を得るために労働しているのだと思われる。

 また現代は利潤を目的としてただ労働しているにすぎない、そして禁欲的性格を帯びる現代の労働は業績と断念とは切り離されないものとなっている。業績を上げるため、つまり何かの目的を成し遂げるためには断念が付きものであるということである。これは授業中で例として挙げた受験勉強について考えてみると本当にその通りだと大きく頷ける。私も受験生のときは、ほぼ毎日志望大学合格という目標のためにひたすら勉強し、遊びは二の次であったからである。またレジュメの最後で発展が終わり、最後に現れるのは「精神なき専門人、心情のない享楽人」というところで専門職業人による社会の化石化、つまり管理社会を支配し、個人の自由や民主主義を空洞化させるということだとウェーバーが主張していることも理解できる。ただマルクス主義について前回まで勉強して洗脳されたわけではないが、どうしてもマルクス主義と比較してしまう。もちろんカルヴィニズムの方が現実的であるが、マルクス主義の方が良いのではないかという部分もあった。

 

 

’05.6.20 17030040 堀籠 あい

ハバーマス「公共性の構造転換」

 人は仮面をかぶる。話す相手や状況によっては、本当に思っていることを押し殺して、相手が望むように、期待されるままに振舞う。時には、相手の感情を逆なでするような発言や態度をあえて示すこともある。人に対して仮面をかぶった自分を演じることはまた、自分自身に対しても仮面をかぶって心の平静を装うことでもある。自身の葛藤を押し殺し、本当の自分の心の声が聞こえないかのように、行動や思考を制御しなければならない。外に対しても、内に対してもそれぞれの場合に適当な選択をし、行動をする。それは生まれてから今まで、培ってきた能力で、それも含めて全てが自分という人間であるという考え方もあるだろう。しかし、時々そんな自分の表面的な態度に疑問を感じ、本当の声に心を傾けたとき、仮面をかぶって、使い分けている「本当の自分」が見えてくる。

だが、本当の自分が何かさえ、わからなくなることがあるのも事実である。本当の自分の性質と、理想化し、こうありたいと思い描いた自分とがいつの間にか混同され、自分が作り出した「本当の自分」を「本来の自分」と錯覚しているかもしれないと感じることさえある。また人は、作った自分で他人に接したのに、うまくいかないことや受け入れてもらえないことがあると、本当の私を分かってくれない、として、「作った自分」の存在を認めようとしないこともある。

山のようにある仮面はどれだけ自分を作り固めるかだけでなく、どれだけ自分をさらすかという点でも区別することができる。もちろんその差は自分でも認識できるものではないかもしれないが、実際、感覚的に使い分けることができる。

人は、仮面の下の素顔は決して誰にも見せることなく生きるのだろうか。少なくとも私は、身近な存在で、一度も嘘をつかずに接してきた人、というのはいない。数回しかあったことのない人ならば嘘はついてないにしても、その人が持った私のイメージと、身近な人たちが持っている私のイメージはだいぶ違うだろう。「あなたらしくない」と言われるのは、その人に今まで与えてきた「自分」とその時の「自分」がずれてしまったときであり、「私らしくない」と思うのは、コントロールがうまくいかなくなった自分を戒め、失敗や疲れから心を守る、自分への励ましである。

仮面は手段といえるが、それによって必ずしも物事がうまくいくわけではない。不要な仮面とわかっていても、それを捨てられず、失敗してしまうこともある。つまらない意地だったり、よく見せようと自分を作りすぎたりして相手の期待からそれてしまうと、マイナスの結果を生むことは多々ある。人は始めに与えられた印象やイメージの影響を強く受ける。一度マイナスのイメージをもたれると、それをプラスに変えるのはとても難しい。また、仮面をかぶった自分、特に意識的に欠点を覆い隠してプラスに見せたその部分をプラスに評価されても、素直に受け入れ、喜ぶことはできない。本当の自分はそうでないことを知っているので、やはり、その欠点はそのままでは受け入れられなかったのだと再認識することになるからである。

仮面は服のようにそれぞれに用途があって、目的に応じて着替えることができる。だが仮面をすべて脱いだら、そこには裸の私がいるだろうか。何もないかもしれない。もしくは服という型に収めていないと形を保てないのではないかと思うと、とても怖くなる。

 

‘05.6.27 17030040 堀籠 あい

 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」

 今回の講義では、3つ、気になる点があったので、それぞれについて考察した。

まずひとつ。すべてのものが記号によって意味を与えられ、表されている世の中における「現実」とは何であろう。ジャンは、「われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている」とも、「メディアはわれわれに現実世界を指示しない。記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費することを、われわれに命じるのである。」とも述べている。

今、この社会において、私たちは「犬」という記号を与えられれば、ああ、あれかと特定の生物の姿かたちを思い浮かべる。毛が生えていて、四足で、ワンワンとなく生物が「犬」を示すコードである。もしそのコードによって連想される生物が、「猫」という記号に置き換えられたとしたら、われわれは「猫」とい記号からかつては「犬」と呼ばれたものを連想しなければならない。

今まで、「決められた定職につかず、アルバイトやパートで生活をしている者」といったコードで連想される「フリーター」という記号で表されてきた人々の一部は、新しく「1534歳の未婚で、職業訓練も含め、学校に通わず、家事や家業の手伝いもしていない者」とのコードによって連想される「ニート」という記号で表されるようになった。その記号の変化が現実であり、それを否定して生きていくことはできない。その現実の中で生きている私たちは、それに適応するしかないのだ。

 次に、「破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない」といった記述について。まさに目から鱗であった。無から使用可能で価値あるモノを作り出す過程は間違いなく生産である。生産の対極が消費であるとするならば、モノをまた無に戻すことが消費であるはずだ。しかし、モノを使用し、消耗する過程も消費という。紙や機械、建築物は消費することで消耗するが、形が崩れていくわけでも、減っていくわけでもない。とすると、消費は必ずしもモノを無に戻さない。したがって、対極にはなりえないのだ。モノを最終的に無に戻すことが破壊、生産と破壊の間の過程が消費、確かにこれは正しい指摘である。

 では、野菜というモノはどうか。生産はわかりやすい。野菜を手にした人はそれを食べること、すなわち無にすることを消費と呼んでいるだろう。これがすでに間違っているのかもしれない。われわれが消費行為と履き違えていたものは、じつは破壊行為だった。野菜を食べることは破壊であり、野菜というモノにおいては、消費という中間過程は存在しない、とすれば納得がいく。あえて消費という過程を設定するならば、それは調理行為を示すことになるだろうか。いずれにしても、ものを使用し消耗させるという意味での消費は生産の対極にはなりえない。これも、記号の変換の一現象と捉えることができるだろう。               

 最後に、差異化への要求が急速に増大していることに関して述べようと思う。他人との違い、個性が強調され、人々もそれを望んでいたはずの近年の日本社会において、なぜユニクロ、特にフリースがあれほどまで大流行したのか。それは決して、よくある「みんなと同じことでの安心感」などのためではない。

 着崩したイメージを連想させるコードをもっていた「カジュアル」という記号を、日常的に、快適に着るファッションと位置づけなおした。個性は服にあるのではなく、人にある。むしろ服に個性があったら着こなしにくい、との信念に基づいて、安かろう悪かろう、ではなく、日常、家の外でも着ることができる質を保ったあたらしい商品を生み出した。最も重要だったのは商品のカラーバリエーションである。色を取り揃えることで、ユニクロのものを中心に、極端に言えば、ユニクロのものだけでのコーディネートが可能になった。このように、あたらしいコードを提案し、人々のもつイメージを変えていったこと、これがユニクロ大流行の秘訣ではないか。

 

 

ウェーバー「宗教社会学論選」

17030057 大島愁理 2005/6/7

苦難の新議論において苦難は不平等に配分されており、いかにそれを克服するかということに観点が置かれている。たとえば、ユダヤ人が獲得するノーベル賞について考えると、彼らユダヤ人はあらゆる苦難の立場に立たされてきただろう。そのため、苦難に立ち向かう力をつけるのに学力向上をめざし、懸命に努力するといえる。このような社会であれば、苦難を克服した人こそすばらしいものだとする考え方が受け入れられるだろう。このように、懸命に苦難の中すごすことはまさに禁欲的な生活であるといえるではないだろうか。ユダヤ人たちは宗教的な問題で多くの苦難に面してきたといえるだろう。ユダヤ人に対して宗教的なイメージを持つ人は多いと思う。私もずっとユダヤ人は厳格なユダヤ教徒ばかりだと考えていた。いまも確かに完全に間違っているものではないと思うが、確実にユダヤ人=ユダヤ教徒という構造が崩れてきているのも事実だと思う。苦難の中で勤勉に禁欲的に生活し、世界的な合理化の流れの中で、単に作為的な苦行が意味を持たなくなるのも当然のことである。そして、日常生活全般が合理的になっていくことは脱宗教化につながっていくものである。また、苦難を克服し、成功をおさめたものこそがすばらしいものだとする考えが受け入れられる背景について考えると、苦難の中にいるユダヤ人の層であるから社会的構造の観点から、神からの使命を与えられているとすることで自尊心が保たれ、業績を上げることで、構造の下部から上へ向かうように努力してきたのではないかと考えられるだろう。

脱宗教化社会において、国家が生の意味を与えることに関しては後期ウェーバーと同じく反対である。自己存在の証明のための死を生の意味として国家が与えることは個人を尊厳していないことになるのではないだろうか。ただ、国家ではなく宗教が生の意味を与えることも必ずしもいいとは思わない。たとえば、イスラム教社会において自爆テロなどが起こっているのは宗教において生の意味が与えられているからだと思う。イスラム教の中でもその解釈によってそのような悲惨なことが起こるのだと思うが、単なる個人の解釈の違いと言うだけですまないと思う。国家間の紛争などにおいてはその意味を国家が与えてしまっているのだからそれはけっして許してはいけないと思う。生や死については個人を尊重するべきだと考えるからである。そのため、国家が国家のための死を生の意味として与えるのではなく国家のために何があってもいき続けることを生の意味として与えるようなことも賛成できない。個人の意思で自己存在を消去することも認めるべきだと考える。

社会的に合理化されていき、脱宗教化が進んでいく中で国家や宗教に固執せず、より個人主義的な社会になるのではないかと思う。国家が宗教に代わって精神的なものやさまざまなものを国民に与えていくことで脱宗教化が起こったが、合理化がますます推進される社会において最終的には脱国家化も起こり個人主義的な社会になり、合理的で利己的な社会になって行くのではないだろうか。しかし、社会を成り立たせるためには何か統制するものが必要だと思う。それが国家であるとするならば、脱国家化は起こらないだろう。グローバル化されていくなかで、それは国家なのだろうか。わたしはこの合理化が進んでいく社会で、世界全体を統制しうる何か別なものの重要性が増すような気がする。

 

ウェーバー「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」

17030057 大島愁理 2005/6/9

カルヴィニズムにおける内面的孤独化について考えてみたいと思う。前回の話で出てきた脱宗教化の流れの中で、呪術からの解放、そして神にも救えないことがあることを認識しただろう事と関連してくるといえるだろう。もともと宗教的な考えをあまり持たない私にとって同感しやすい話であった。大学受験に対して誰も自分以外救うことができないという不安、内面的孤独化を感じ努力してきたと思う。しかし、それは神のためではないし国家や社会のためでもない。自分のためでしかない。そのためカルヴァン派のいう社会労働は神の栄光を増すためというところには賛同できない。神を国家としてもその考えは理解できない。私は以前のレポートにでも述べたが、これからの社会はもっと個人主義的になるのではないかと考えている。労働は自分のためという感覚が一番理解できるのである。しかし戦時中やその後バブル崩壊までの高度成長期においては、労働が国家のため言う考えが受け入れられていたように感じられる。

戦後の高度成長期、おそらく日本では仕事のために努力を厭わない仕事人間ばかりだったといえるのだろう。復興させるという使命をほとんどの日本人が感じていたからであろう。前回の授業で使命について、苦難のなかで神から与えられえた使命として勤勉に懸命に頑張る話が出たが、この高度成長期における仕事人間も苦難の中で生じたものであり、また、それは資本主義の精神に基づいていたといえると思う。日本人がもともと勤勉な性格であったともいえるかもしれないが、戦争中に国家のため全てを犠牲にしてきたのちにそれぞれが復興のために職につき懸命に働いてきたといえる。そのときの人々はそれをまさに転職だと思い、勤勉に努力を押しまずに働いてきた。私が今豊かに不自由のない生活をしているのはそれらの働きのおかげだとも思うし、それらの人たちを否定する気は決してない。しかし、仕事のために家庭や自身の健康を傷つけるようなことは決してその人にとって合理的でないと考える。仕事はそれ自体が目的ではなく、自身やその家族のためであると考えるからである。仕事自身が目的となっているほうが理想的だとする考え方は、マルクスについて学んだときにも出てきたし、確かにそういう考え方もあると思う。しかし、私は仕事はなにか自身を満足させる目的のための手段として考えている。仕事自体も自己実現の目的とはなっているが、それだけになることは意味のなさないことのように感じている。私がバブル崩壊後の社会で成長してきて、モノが溢れ、雇用も減少し人も溢れているのをみてきた。その中で自分が働かなければならないという使命感は感じたことがなかった。今の私たちと戦後の人たちの違いはその使命感や危機感であろう。このいまの社会において多くなってきているフリーターの考えは伝統主義に近いといえるということであったが必ずしもそうではないとおもう。完全にフリーターは仕事が目的ではなく手段の人たちであろう。仕事以外のことのために時間を使いたいのであれば、仕事はできるだけ収入のいいところで働きたいと考えるだろう。また目的のために労働に多くの時間を費やす場合も度々あるだろう。そのため、伝統主義では収入の多いことよりも労働の少ないことを選ぶが必ずしもそうとはいえないといえる。

 

マルクーゼ「エロス的文明」

17030057 大島愁理 2005/06/19

過剰抑圧が良いのか、過少抑圧が良いのかという議論においてどちらも決して良いものだとはいえないだろう。まず、過度に何かを行うことはどこかにゆがみを生じさせてしまうと思う。その結果過剰抑圧と過少抑圧が繰り返されていくのだと思うが、どちらの時代が良かったのかという言い切れないものがあるだろう。現在は高度成長期後の自由な過少抑圧の時代といえるかもしれないが、その中でも人によって、またその人の中でも時期によって過剰抑圧といえる状態もあるだろう。個人的に私の話をすれば、基本的に過少抑圧の中で育ってきた。高校進学の際に親元を離れたので親と暮らしたのは中学までだが、その間親から勉強するようにだとか習い事であったピアノの練習をするように言われた記憶はない。テスト前に勉強していてもちゃんと寝るようにと注意しに来るくらいであった。勉強についてはやるように言われてやるものではないと思う。自分のために勉強はするものであるので、自分が必要だと思えば親からの抑圧は不必要だといえるだろう。ただ、学校などでは必要最低限の抑圧は必要であろう。今、大学での生活のように抑圧のない小学校、中学校生活を送っていたら、大半の人が勉強をせず、また興味も持たずに生きていくことになるだろう。また近年のゆとり教育で学力低下が叫ばれたように、学校での教育の抑圧が生徒の学力に影響するということに異論は出ないだろう。いま、家庭では過剰放任と過剰保護の二極化されているということが問題になっていたが、私は親が愛情を持って行うのであれば、放任主義に賛成である。親がきちんと子どものことを思っているのであれば、その抑圧のない自由な状態が親に信用されているからであることを子どもも理解し、親の信用を裏切らないように自分で自分を律するだろう。また、学校において校則が厳しいほうがすばらしい人が出来るかという話が出ていたがそれもそうとは限らないだろう。私は高校の時校則というものがなかった。自由に髪を染め、自由な服装を着ることが出来た。自由自律ということがその高校では言われていて、その生徒も校則に縛られるのではなく自分達が自己の判断に任されているということを自覚しそのことを誇りに思っていたように思う。今考えても高校時代の友達は考えが大人で人として尊敬できるひとが多かった。いま大学で会う人よりも感銘を受けることが多かったように思う。それは自由自律の精神に賛同した生徒達が集まったからなのかもしれないと思う。高校時代校則に縛られ、いま大学で急に望まずに自由になりただただその自由に溺れている人たちがまわりに大勢いる。教育の場における外部からの抑制というのは、小学校レベルでしか必要としないのかもしれない。中学校でも場合によっては必要かもしれないが、自分で分別つくようになったら、自分から自発的にやるように教育することのほうが大事だといえるだろう。私は抑圧は必要であるが、過剰抑圧は決していいとは思わない。程よい抑圧と、必要なのは自分で自分を律する心を育てることだと思う。過少抑圧であっても個々が自律できれば問題ないと思うが、それは理想に過ぎないのだろうか。けれど外部からの抑圧よりも自律の精神のほうがすばらしいと私は感じる。それは、高校時代の自由自律の精神であり、幼少から自分を信じ、支えてくれた親の考えによるものだと思う。そして、私はそのようにいままで生きてこれたことを幸せに思っている。

 

 

ウェーバー『宗教社会学論選』(みすず書房)

本間 愛子  17030089  提出日 6月8日(水)

 幸福の神義論によると、幸福な人間は自分が幸福を得ているという事実だけでは満足せず、自分が幸福であることの正当性を要求するようになる。これは恐らく、自分は幸福になってよいのかと自己を省みる謙虚な姿勢の表れではない。むしろ、他人と比較して自分こそがその幸福に値する人間であるとの確信を得たいという単なるエゴであり、幸福であることに思い悩む自分に陶酔しているだけである。私は、幸福の神義論はそれほど奥が深いものではないという印象を受けた。

 一方、苦難の神義論によると苦難は不平等な配分がされており、多くの苦難を背負った人にとってそれをいかに克服するかが問題となってくる。例えば、最も苦難を背負った民族といわれるユダヤ人にはノーベル賞受賞者が多いが、これには親が子供に知をもって苦難を克服するため徹底的に教育を受けさせるという背景がある。社会層別に見ると、恵まれた階層に属する人は既に存在が恵まれているため、自らに使命を課したりがむしゃらに業績をあげようとしたりはしない。社会的な名誉と権力をしっかりと握っている社会層はその身分にまつわる伝説を作りたがる傾向があり、彼らにとって自らの自尊心を育てるものは存在そのものである。逆に、恵まれない身分の社会層の人には地位や権力がない。そこで彼らは、自分に委ねられた特別な使命への信仰によって自尊心を養おうとする。彼らは禁欲的にその使命に取り組み、業績をあげることで自らの価値を保証・構成し自尊心の基盤を得る。このように、人間は生まれたとき既にその社会的身分に応じて存在の価値がある程度決められているというのは、認めたくはないがやはり事実である。重要なのは、たとえ貧しい家庭に生まれてもそれを受けとめ、決して卑屈にならず自尊心を持って生きることではないだろうか。そのためには、人の価値を身分だけで決めつけず、努力次第で認められるという社会の風土の確立が必要である。まだ世界には身分制が根強く残っている地域があり、日本でも家柄に対するこだわりを持っている人はいるが、これらは考え直すべきである。

 次に、禁欲と神秘論の類型学について考える。神秘家には独自の心砕かれた謙虚さがあり、現世に対立しまた現世における自分の行為に対立しつつ自分の救いの確証を得ようとする。だが、これは現世内的禁欲者にとっては単なる怠惰な自己満足にしか見えない。現世内的禁欲者は行為を通じて自己の救いの確証を得ようとするため、神秘家の態度にやる気のなさを感じてしまうのであろう。逆に神秘家にとって禁欲者の態度は、義認を受けているという自分だけのむなしい考えを抱きつつ、神と関わりのない現世の営みの中に巻き込まれているという印象を与える。私が高校生の頃、かなり成績優秀な友人が突然海外を放浪するため学校を退学してしまった。私は、彼女は昔から不思議なところがあり、また繊細な性格の持ち主であるということを知っていたため彼女らしいと感じたが、一部の学生は、彼女のことを受験放棄して卑怯だと批判した。このように、現世内禁欲者も神秘家もある意味信念をもっているのだから、お互いを理解できなくても当然であると思う。

 死に対する意味づけについて、9.11テロをふまえ意見を述べる。9.11テロにおいてテロリストが自爆テロを起こしたのは、アメリカに対する強い抗議を示すためだと私は考えていた。しかしそれ以上に、彼らは自分に生の意味を与えてくれる宗教への信仰心を示すことが己の使命と感じ、その究極のかたちとして自己存在の消去を選択したのではないだろうか。アメリカ云々というよりは、然るべきときに死ぬことで死に意味を与え、自らの指名を果たすことが目的であったように思われる。

 このように、人間には自分の存在の価値を見出したい、また人に認められたいという願望がうまれつき備わっており、これは時代や場所を問わず普遍的である。このことは、合理化がここまで進んだ資本主義社会においても恋愛という極めて非合理的なものが存続していることに関連しているのではないだろうか。恋愛には、嫉妬や第三者に対する排他的占有欲がつきものであるが、これらの面倒な事柄にめげることなく人間は恋愛することを選択している。これは、人間は誰しも他者に認められたい、そして自分の存在する意味・価値を見出して自尊心をもって生きたいという願望を根底に持っているためであると私は思う。

 

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)

本間 愛子  17030089  提出日 6月13日(月)

 カルヴァニズムは、自分が受験において実際に経験したことを含む内容であるため共感できる部分が多い。受験生だった頃を振り返ると、友達と遊びたい欲求やテレビを見たい欲求、ゆっくり眠りたい欲求などを我慢し、1分1秒を無駄にしまいと合理的な時間の使い方を心掛けていた。高校3年生というと、遊ぶのが楽しくて仕方ない青春真只中の時期であるにもかかわらず、多くの学生が禁欲的に努力する。これは、カルヴァニズムにあるように自分の心の内面に抱える大きな不安を少しでも解消したいためであろう。宗教において不安や孤独が人々を信仰に駆り立てるのと同じように、受験においても内在的不安が学生を努力に駆り立てるのである。また、頑張れば志望大学に合格できるという希望があることもモチベーションにつながる大きな要因であり、大学合格というゴールが見えるからこそ辛い受験に立ち向かうことができるのだと思う。私は浪人生活を送っているとき、人生においてこれ程の苦難はこの先ないのではないかと思っていた。だが、受験においては努力すれば不安は多少なりとも解消するし、ゴールが見えることが励みとなるのだからその分楽であった。現在私たちは就職活動を控え様々な不安を抱えているが、この不安は受験における不安と同じように努力によって解消されるものではないように感じる。これは、就職活動はこれまでに経験したことのない未知の領域であり、受験における大学合格といった明確なゴールが見えず、そのうえ無事就職できたとしてもこの不安定な社会ではいつかリストラされるのではないかという先行きの不透明さがあるためであると考えられる。就職活動は資格を持っていると有利だと一般に言われるので、私はパソコンの資格を取得してはみたが、果たしてこれが本当に役立つのか定かではないため私の不安は解消されていない。このように苦難に立ち向かうときには、それに打ち勝つために何をどう努力すればよいかの術を明確に知っているかどうかで不安の解消の度合いに大きな差が生じる。だから、よく言われることであるが敵を知る、つまり立ちはだかる苦難にはどのような努力が有効であるかを知ることが大切であり、独り善がりにただがむしゃらになるのは精神衛生上よくないと考えられる。これは、禁欲・勤勉を貫いてピークに達した後にはとてつもない無意味化が訪れるためである。あまりに禁欲的に自分を締め付ける人は、緊張の糸が切れるとその反動で自分が何のために頑張ってきたのか分からなくなってしまい、自分という存在そのものまでも無意味に感じてしまうこともありえる。同様のことは個人レベルだけではなく、社会全体にもいえる。バブル崩壊後、日本経済は急激に活気を失い、長い不況に陥ったのがその例である。こういった問題の対処法としては、いくら不安だからといってあまり禁欲的になりすぎないで心にゆとりを持つこと、規律正しく生活する中でときには羽目を外すことが挙げられる。また、小さな目標をコンスタントに自分に設定すればモチベーションを維持できるのではないだろうか。

 次に天職について意見を述べる。

 かつて、人間に義務づけられた自己目的を天職とみなす非合理的な見方がなされていたが、後に天職思想や職業への献身は合理的な思考と結びつくこととなる。特にピューリタニズムの人生観は、経済的に合理的な生活態度へ向かおうとする傾向に対して有利に作用した点で非常に大きな意味を持つのではないだろうか。ピューリタニズムの考え方は、神聖なる天職を合理化しているため人々の反感を招いたかもしれない。だが、正当な利潤を天職として組織的かつ合理的に追求するという心情が資本主義的企業の適合的な推進力となったおかげで、営利活動を行ってもいいという風土ができ競争がうまれ、結果的に社会全体が発展したことは評価すべきである。ピューリタニズムは、現在の資本主義経済の礎の構築に非常に大きな貢献を果たしたという点で、天職思想を合理的な思考と結びつけた勇気は素晴らしいと私は思う。

 

アーレント『人間の条件』(ちくま文庫)

本間 愛子  17030089  提出日 6月15日(水)

 今回の講義で、普段あまり意識しないが労働・仕事・活動にはかなり違いがあるということが分かった。以下にそれぞれの特徴を挙げ比較しながら、自分にとっての理想的なスタイルについて述べる。

 まず労働については、個人ではなく他の全ての人たちと一緒に作業をすることで労苦と困難が和らげられる点がメリットといえる。これは、受験において自分ひとりではなく皆も頑張っているという一体感が快感となり、辛いこともそれほど苦に感じないのと同じことである。ただし、労働には単調な雑事を日々容赦なく反復することを強制されるという退屈な一面もあり、また努力の結果が努力を費やしたのとほぼ同じくらい早く消費されてしまうため背後に何も残らないという空しさもある。これは各個人の価値観によるが、私は自分の生産したものが後々まで残るかどうかにはあまり関心がない。むしろ耐久性が低く何も残らなくても、その場その場で誰かの役に立っているという事実を重視するほうが潔く、私にとっては理想的なスタイルである。私の中で労働は内職に近いイメージがあり、それは地味で華はないがなくてはならない縁の下の力持ちのようなものである。こうした意味で労働と主婦業は似ていると思う。家庭において、収入的に実際支えるのは夫であるが、それは妻が毎日の食事、洗濯、掃除といった単調な繰り返しをしっかりこなしてこそ成り立つことである。だから私は、主婦業も非常にやりがいのある素敵な仕事だと思っている。そして、労働に固有の特徴として私が最も魅力的に感じたのは謙虚さである。きれい事に聞こえるかもしれないが、労働の主要なものである農業は大地と密接に関係しているため、必然的に大地や生命を尊び、我々はそれらに生かされているという気持ちが育まれたのだと思う。

 次に仕事についてであるが、先に述べた労働とはかなり異なった性格である印象を受けた。まず、工作人が地球全体の支配者、主人として振舞うことに納得がいかない。工作人は自分でビジョンを立て、その生産は自然に対する暴力、破壊を前提としており、暴力の経験によって自己確証と満足を得られるのだから、労働のようにそれなりの謙虚さがあってもいいはずである。だが、工作人には全くそういった態度が見受けられないのだ。そして、工作人の人間中心的功利主義の最大の表現であるカントの定式には怒りすら覚えた。カントは、人間は自己実現するためであれば一切のものを手段として用いることができる唯一の目的自体であるととらえているが、私はこの傲慢な考え方にとても嫌悪感を持った。カントの言うように、目的を次々に設定し最高目的までクリアし自己実現する人は立派だとは思うが、そこに至るためなら多くのものを破壊してもよいとする自己中心的な考えはよくないと思う。また、仕事の特徴として工作物全体が世代を超えて永続するような耐久性を持っていることが挙げられるが、これも私にはエゴイスティックで共感ができない。自分の工作物を後々の世まで残したいとする工作人はかなり強欲の持ち主であり、生産する本来の目的を見失っているのではないだろうか。総合して、仕事は私の理想とは遠いという印象を受けた。

 最後に活動についてだが、活動も労働とはかなり異なる性質をもつことが分かった。まず、労働には一体感があるのに対し、活動は多様性を持っており、また労働は生命との一体性を大事にしているのに対し、活動は個性を重視している。そして労働はシナリオに従うため単調であるが、活動は物語的で大どんでん返しもありえるというのが最も大きな違いではないだろうか。講義の中で、仕事に物語性を求めるのはハイリスクなので、休日に物語性を求めるという面白い意見があった。だが日常というのは連続しているため、休日と仕事を完全に切り離すことは難しく、休日における物語的な部分は必ず仕事にも大きな影響を及ぼすものと考えられる。私は活動の物語性を否定はしないが、その物語が悪い方向に進んでいったときのことを考えると、労働のほうが単調ではあるが望ましいと個人的には思う。活動に関して魅力的に感じたのは、活動は目的を追わず、それ自体のために行動し、コンサマトリーな時間を過ごせる点である。例えば、フリーターがコンビニでお金のために働くよりも、演奏家がただ演奏そのもののうちに完全な意味を見出し活動するほうが充足しており活力豊かであるといえる。

 結局自分の理想は労働に若干近いという感じはするが、断言することは難しい。それは、3つともが全く独立しているわけではなく関連し合っており、世の中の職業1つ1つを見ても労働・仕事・活動のどれに当たるか完全に分類することは不可能であるためではないだろうか。いずれにしても、社会が円滑にまわるためにはこの3つの要素全てが必要であると思う。

 

マルクーゼ『エロス的文明』(紀伊国屋書店)

本間 愛子  17030089   提出日 6月20日(月)

 今回の講義を受けて、過剰抑圧と過少抑圧の両方に問題があり、一方に偏るのはよくないという感想を持った。

 日本では、1968年の学生運動の頃を境に過剰抑圧から過少抑圧へと移行し、過剰抑圧を経験した世代と過少抑圧の社会しか知らない我々のような世代の間には、当然価値観や考え方、行動力などあらゆる点で違いがある。 

まず、過剰抑圧がなされていた高度経済成長期のような社会では管理社会化が進み、人々は束縛から解放された自由な生活に大きな理想を持っていた。この理想と現実の果てしないギャップが、この世代の人たちの原動力、爆発力となり、奇跡的な経済成長が実現したのではないだろうか。

 一方、過少抑圧の社会では、個人の感じ方にもよるが、私は束縛される部分は多少あるものの言動など様々な面で自由が与えられているように思う。この飽和した自由の中に、現代人の多くは常に漠然とした不安を抱いている。また、抑圧が少ない分私たちは反発する力を持たず、高度経済成長期の人々に比べるとパッションやバイタリティーに欠けるといえるかもしれない。この20年間でGNPが急激に伸びた反面、日本人の満足度はかなり下がってしまったのも、私たちが自由を手に入れてはいるが日常の中で何となく張り合いの無さや物足りなさを感じている証拠であると考えられる。過少抑圧の生活は一見ストレスを感じることが少なそうではあるが、抑圧が少ないこと自体がストレスとなり、こうした無気力につながるのだと思う。近年のフリーターの増加もここに起因しているのではないだろうか。こうして考えてみると、今まで抑圧というとマイナスのイメージが先行したが、実は適度な抑圧がないと人間は幸せのありがたみを感じられないという結論に至る。以前ある本で、最近の新入社員はクールで感情の起伏が小さく、仕事に対する熱意が足りないと読んだことがある。これは、彼らが子供の頃にテレビゲームが流行したことや核家族化などが原因として考えられるが、過少抑圧の中で育ったということも感情を平坦にしてしまっている要因だと思う。彼らは生まれたときからある程度は常に満たされた状態であるため、何かを貪欲に求めて熱くなるという経験に乏しく、仕事においても自分から積極的に取り組むというよりは指示されたことを無難にこなすというスタンスをとるのだ。同様のことが教育の現場でもいえる。ゆとり教育によって教科書の内容は大幅に削減され、子供はその分余裕をもつようになった。おそらく、教育者側の狙いとしては、この余裕を生かして子供に自分の熱中できる好きなことを見つけるなり、将来の夢や目標を見つけるなりしてほしいというものだろう。しかし、過少社会で育った子供達はそんなバイタリティーを持ち合わせておらず、余裕が与えられても自分を模索して何かを見つけようなどと熱くなったりはしないのである。これは私個人の考えであるが、自分と向き合い新たな一面を発見するには、自分に向いているか向いていないかは別としていろんなことに積極的に取り組むことが有効だと思うのだが、これにはかなりのエネルギーが必要である。このエネルギーの源となるのが抑圧であり、人間はその抑圧に抵抗し乗り越えることを繰り返して自分の世界を広げていくのだと思うので、抑圧の少ないゆとり教育ではその効果を期待できない。かといって過剰抑圧にすると、厳しい学校ほど荒れていることに見られるように子供の反発心が強くなりすぎてしまうという問題が発生する。つまり、抑圧は適度に行なわれないと有効に機能しない訳であるが、適切な程度を見分けるのは極めて難しい。そのため、社会は現状のように過剰抑圧と過少抑圧を繰り返しながら微妙な調節をするしかないのだと思う。

 次に、過剰抑圧社会と過少抑圧社会それぞれにおけるエロスとはどのようなものかについて述べていく。

 まず、過剰抑圧社会においては、快楽の束縛と強制的・禁欲的な労働や教育が行われていた。エロスが満ちると生産性が低下するとされ、エロスを昇華させることはタブー視されていた。そのため人々は満足することを放棄し、満足を断念された攻撃の衝動はすべて超自我に引き継がれ低次の自我をサディスティックに攻撃し、この攻撃性が高度経済成長を支えたのだと思う。過剰に抑圧された人々はエロスをタブー視する反面、エロスの解放に大きな憧れを抱いており、エロスは特別な存在であったのではないだろうか。

 一方、過少抑圧社会においては、誰でもわりと自由にエロスを昇華することができるため、エロスは過剰抑圧社会に比べるとそこまで特別なものではないといえるだろう。しかし、日本人は古くからの恥の文化に象徴されるように、ラテン系などに比べると未だにエロスに閉鎖的である。このように、エロスに対する考え方は、時代や国民性によって大きく異なっている点が興味深く感じられた。私も含め多くの日本人は、エロスという言葉を口にすることにすら抵抗を感じてしまうが、今回の講義でエロスは低俗なものではなく、文化そして文明を作り出す源であり、人間の本来の憧れなのだと思えるようになった。

 

ハーバーマス『公共性の構造転換』(未来社)

本間 愛子  17030089   提出日 6月22日(水)

最初に公共性について意見を述べる。

ギリシアにおける公共性は、市民相互の対話による議論そのものであり、議論の中で卓越した対話力を持つ人が栄誉を勝ち取ることができた。中世になると、公共性はもはや政治的意思疎通の行われる生活圏ではなくなり、封建的権威の威儀としてとらえられるようになった。そして14世紀には公共性は社交性の要素が、16〜17世紀には行政の要素が強くなった。17世紀中頃には行政当局が命令や指令を新聞により公示するようになったが、この方法では教養のある身分にしか届かず、読書する公衆としてブルジョアが公衆の真の担い手となった。

このように公共性は時代とともに変化していったが、私はギリシアにおける公共性が全て対話によるという点で、最も裏のないフェアなものであるという感想を持った。また、17世紀には新聞を利用する者が社会的に優位な立場にあったが、これは現在にも大いにいえることだと思う。例えば、就職試験や昇進試験において、時事に関する自分の考や世界の動向を踏まえた意見をよく求められるが、このとき新聞を日頃から読み知識・情報のストックが自分の中にあるかどうかが非常に重要になってくる。私も就職活動に備えて、これから新聞を読んで自分なりの考えをもつ習慣を身に付けたい。

今回の講義で、私は日記を書くことも習慣にしたいと思うようになった。中学の3年間は日記を毎日提出しなければならなかったので習慣になっていた。だが、やはり担任の先生に読まれることを意識していまい、自分の正直な考えばかりを述べていた訳ではなかった。だから、今度は誰にも読まれない、取り繕う必要の無い正直な日記をつけようと思う。日記をつけることを通して内省的になる時間を確保し、自己理解を深めたい。また、日記は自分の考えを文章にしてまとめるトレーニングにもなるため、議論の場でも非常に役立つのではないだろうか。

しばしば日本人はアメリカ人と比較すると議論が下手であると言われる。この原因は大きく2つあると思う。

まず1点目に、日本人の衝突を嫌い丸く治めようとする国民性が挙げられる。日本人は誰かの意見を批判するとき、人間関係にひびが入らないかを気にするあまり自分の意見をはっきり言えず、意見を言うこと自体遠慮してしまうことがある。これは日本人の細やかさや繊細さであり、決して悪いとは言い切れない。だが、少なくともビジネスなど交渉の場においては不利である。これには、日本人が仕事とプライベートを区別できていないことが影響していると思われる。例えば仕事において同僚のプランを批判しても、それはあくまで仕事上のことと割り切り、休日は一緒に釣りを楽しむことができればお互い気まずくならずに済むだろう。これは職場での活発な意見交換につながり、企業利益にも結びつくと考えられる。こういった風土が定着すれば、内部告発などの件数も増加し、企業の健全な運営にもつながるのではないだろうか。

2点目としては、日本人にはボディランゲージやアイコンタクトといった文化が根付いていないことが挙げられる。アメリカ人などは相手を説得する際、身振り手振りをたくさん交えながら相手と目をしっかり合わせ、嫌なことには表情や語調に拒否感を出している。このようにアメリカ人は口だけではなく、手や眉の動きといった表情、声の大小といった自分に与えられた全てのツールを利用し全身で相手に伝えようとする。それに対し日本人は表現力に乏しく、たとえ同じ内容を話していても迫力に欠けてしまう。

 講義の中で、意見を言わない人も決して何も考えていない訳ではなく、考えがあっても言えないだけであるというコメントや、日本人のほうがアメリカ人より数学などの偏差値は高いのだから議論とは別の分野で輝けるはずだというコメントがあった。私はどちらも正論だと思うのだが、やはりこのグローバル経済のもとでは、ディベート力がないと日本は国際競争の中で生き残っていけないと思う。今までの日本の会社では寡黙な社員のほうが従順で上司にとって扱いやすいとされていたが、寡黙さだけで通用する時代はとっくに終わったのだ。今後は世界を相手に主張する必要があり、それには子供のころからディベートに慣れ親しむことが効果的であると思われる。だが今の子供の遊びはテレビゲームなど受動的なものが多く、これらはテレビを相手にするため他者との対話を一切含まない。また、核家族化や人間関係の希薄化に伴い、子供達の日常話す相手は同世代のかなり限られたメンバーになっている。こういった環境では子供にディベート力を求めるのは難しい。これを解決するには、授業に議論をするプログラムを積極的に取り入れる必要があり、ゆとり教育をするぐらいであればディベートの時間を作ってはどうだろう。議論する能力が身についてはじめて学習で得られた知識が活きてくるので、これからは知識を詰め込むだけでは国際社会で生き残る人材の育成はできないと私は思う。